ニットキャップシアター『チェーホフも鳥の名前』を観てきました。

ニットキャップシアターとの出会いは、2013年に南参さん脚本・ごまのはえさん演出で上演された『消エユキ。』です。

その後、2015年に劇団公演の『こんなにもお茶が美味い』@コンカリーニョ→2021年の『カレーと村民』@配信を経て、久々のリアル観劇。

本作の舞台となっているのは1890年〜1980年代のサハリン島で、領有権もその間にロシア→日本→ロシアと変わり、そこで暮らす人々を翻弄していくわけですが。

この時代のサハリンといえば、やっぱり川越宗一『熱源』を思い出してしまう。そして、日本占領下の朝鮮半島から生きるために移動せざるを得なかった朝鮮人の中で、ロシア沿岸部へ移動後に中央アジアへ強制移住されられた人たちを描いたキム・スム『さすらう地』をはじめ、戦前戦後にさまざまな影響を受けた朝鮮人にまつわるたくさんの物語も。

これまでにいろいろな物語で触れてきた人たちのことを思い出しながらの観劇でした。

中でも本作で自分に強い印象を残したのは、ギリヤーク人の母とロシア人の父を持ち、日本統治下の樺太(サハリン)で日本人として生き、戦後にロシア人からも日本人からも否定される源太で。

マイノリティ出自の人たち(あるいは支配される側の人たち)が、マジョリティに認められる手段として積極的に「国」に奉仕しながらも、状況が変わればあっさりと見捨てられる残酷さ(国の卑劣さ)に胸が痛むけれども、

源太は妹を探しに渡った日本で、期せずして国からも人間からも超越した、「河童」というアイデンティティを与えられる。

「河童の源さん」になってからは水を得た魚の如く彼が生き生きしていて、救われる思いというか、フィクションの優しさを思いました。

そして、ご本人的には「70年代に日本の郊外を放浪していたら、まあ、カッパかなあ」ぐらいの感じだったみたいですが、その辺からも、

アフタートークで触れられていた関西知識人?の無責任なユーモアの妙(だったかな)的なものが、ごまのはえさんにも流れているのではーと思ったし、

さらりと河童アイデンティティを与えてしまえる「ユーモアへの信頼」みたいなものって、やっぱり作家性のようなものなんじゃないかなーと思った次第。

あとはー

昨日は普段あまり劇場で目にしない人たちの姿も見かけて、ちょっと新鮮でした。

(編)

 

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