続いて、場と、音と、踊る。舞台『うつろうもの』をガラスのピラミッドで。

「ある人の「土葬」にはじまる、生物が土に還ること…”森で循環する命”をテーマにした物語」とあるのだけど、

個人的にそれも含めて「死」への向き合い方についてかなり考える時間となったし、近い将来残される側になることがわかっている身として、救いのような発見のある作品でした。

ちなみに

配布パンフレットを今見たら各シーンの簡単な説明が載っていて、途中全然違う見方をしていた自分的に「あそこは、そういうシーンだったの!」と、ある意味二度楽しめているような状態なのですが…まあ、これはこれで。

Scene1は「葬列」。Scene2は「森に還ろうとする軀(からだ)のうつろい」。

と続いて、

Scene3は「夜と喪心のうつろい」。これ、自分の座っている位置からは「闇たち」の登場シーンをちょうど正面で観ることができたので、映画的な美しい構図と時間の流れを余すことなく堪能できて、冒頭からしびれました。席の幸運。

水中深くに沈んでいくような感覚になるガラスのピラミッドならでは?の音も相まって、残された側(大切な人を失った側)の悲しみに沈む心情が美しく神秘的に描かれたScene3で、グッと引き込まれた次第。

そして、自分的に泣けたScene4!ここにSAROさんのタップをいれてきた脚本・演出の絵美さんに最大級の拍手を贈りたい…!

というのはですね

最初は、残された側を描くものとしてこのタップのエネルギーは不思議だなと思いながら観ていたのです。

でもふと、これは死んだ側を描いているのではないか?と。

例えば、土葬の場合は、肉体がどんどん分解されていくという大変換が起こりますよね。そのダイナミズム。

たとえ火葬だったとしても、肉体から自由になった魂が光となって何億光年も先の宇宙の彼方まで旅をし、そこで消滅するようなダイナミズム。(このイメージは、少し前に読んだチョン・ミョングァン『鯨』からの影響が大きい)

そういうことが起こるのだと、「死」とはそれほど凄まじくエネルギッシュで動的な出来事であり、寿ぐものなのだと、SAROさんのタップから感じて思わず涙。

そしてScene5。ここもかなり自分の体験に引き付けて観たシーンなのですが、3年前に愛猫ロスがひどかったとき、緑あふれるお山暮らしであることにかなり救われまして。

(参考までに今はこういう感じで、さらに緑緑していく)

喪失を受け止めきれずにいる自分の周囲では、変わらず野鳥が木々を飛び回り、さえずり、動物や昆虫、植物といった生の営みが繰り返されていく。

Scene5で踊る二人のダンサーは、自分には、2020年の夏に日々目にしていた戯れるヒヨドリのつがいでした。

ちなみに帰りご一緒したTO OV Cafeの一典さんは、このシーンから「(日常とかのような、だったかな?)慎ましさの美学」を感じたそうで、

こう、何か続いていく外の世界の美しさ、的なこと(自分にはその象徴としてのヒヨドリ)は、もしかしたら多くの人が共通して受け取ったものなのかも。皆さんはどう観ましたか?

そしてScene6。生きている限り残される側ではあるけれど、それでも人はいつか死ぬわけで、自分的には夜のガラスのピラミッドという宇宙的な空間で無数の魂が邂逅するシーンでありました。

心の中でSAROさんのタップ(=ダイナミズム)を再現しながら観ました。

そして、いつか大切な人の死を迎えたときも、心の中でSAROさんのタップを再現すると思います。

思い返せば、絵美さんから本作の構想を聞いたのが多分2020年だったのではないかなと。そこからたくさんの人たちと時間をかけて作品をつくりあげて、得難い発見をもたらしてくれたことに感謝しかない…。

素敵な作品をありがとうございました。

あ、余談ですが、土葬については高橋繁行さんの『土葬の村』もおすすめです。

ふう。

(編)

 

 

 

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