中村佑子『マザリング 現代の母なる場所』読了。

「マザリング」とは本書によると(オックスフォード現代英英辞典の和訳として)「子どもやその他の人々をケアし守る行為」で、つまり「マザリング」は性別を超え、ケアが必要な存在を守り育てるもの、生得的に女性でないものや自然をも指すのだそうな。

よだれや排泄物の側から世界を見ると、健康な人間が生きている都市と労働空間は、圧倒的に管理され、暴力的なほどクリーンだった。(略)なにかおかしいと身体が叫んでいた。都市における身体が機械化しすぎている。

著者が妊娠出産期や授乳期に覚えた強烈な違和感と、それは病気の人や介護を受けている人たちにとっても同じなのだという気づき、そこから「すべて理性に回収されるような近代的自我と、すべて数字に回収されるような資本主義社会は、生命を疎外している」と書きます。

イ・ランさんへのインタビューの章では、なぜか泣けてしまったなあ。あと第10章の「虚無としての母」で書かれていたことも、とても興味深かったです。

自分にもそのうち「マザリング」するときがやってくるだろうし、本書はその過程で起こりうる「管理」や「クリーンさ」から逸脱することに対する恐怖を和らげてくれる灯火になりそうだし、

この本からもらった問いを、自分なりに深めていけるといいなと思いました。コロナ禍で読んだから、なおさらしみた。

久しぶりに演劇配信も一本。ニットキャップシアター『カレーと村民』

※5/31までの配信です。おすすめ!(詳細はこちらから。)

見終わったあと、ぼんやり「知性」について考えました。「勉強ができる、知識がある=知性」ではなくて、その知識を社会のために役立てたい、より良き人間として生きたいという志こそが、知性と形容すべきものなんじゃないかしら。

志のない人は風見鶏みたいで、その時々で知識をフル活用して詭弁を論じることはできるけれど、知性をその人に感じることはできない。二郎とアキの違いを、そういったところに感じたように思いました。

(二郎はその空虚さを自身でわかっていて、そのことについて嗚咽するシーンはあるのだけど)

(今の内閣の閣僚を思い浮かべても、自分的に知性を感じない理由はこの辺じゃないかと思ったり…ディスってすみません)

あと海軍の息子を亡くしたおとめさんが、戦闘中の時間に戻ったウシオの後ろに寄り添う形になるシーンがあって、その瞬間おとめさんは、かつてその時間を生きた息子さんに寄り添えたのだと思えてグッときた。あのシーン、地味によかったなあ。

あとはー、カレーに味噌かい〜と思ったけど、意外と隠し味的に用いるレシピがあるんですね。

久々に演劇に触れたけど、良い作品体験でした。

5月はこちらの本も少しずつ読み進めていきまーす。最初にどれを読もうかな。

(編)

 

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