ポケット企画『見ててよ』をシアターZOOで観てきました。

以下公式サイトからのあらすじ

舞台は座敷童の宿る老舗旅館。オカルト誌編集者の「大森」は霊視のできる少女「ちえ」を連れて座敷童の取材へやってきた。
旅館に宿るある噂の真相へ近づくため取材を行う2人だが、「わらし」が起こす不思議な出来事に振り回される。

――わたし、見たんですよ。自分の亡骸を。

目を閉じ、願い続ける少女の念(おも)いは、途方もない暖かさで包まれていた!

ポケット企画の作品を観るのは『おきて』に続いて二度目なのですが、前回同様、少し遠巻きな感覚で作品を観ていて、しかし不意に「わらし」から発せられた「お願いをしてくれないから…!」という台詞に鋭く射抜かれた私。

(この日一緒に観劇していた知人は、上記を話す自分に「その1行だと全然わからないですね」と言っていて、これを読む人にとっても100%なんのこっちゃだと思うのですが。)

で、なぜ自分に「お願いをしてくれないから…!」という台詞があんなに鋭く入ってきたのかを考えてみると

劇中二度ほど繰り返されていた「人は幸せになる理由がほしいんです」という台詞にも少し重なってくるのかなと思うのだけど、

自分の中にある、「人が持つ欲望や期待と、それを駆動する(動機づける)ための媒介(としての言葉や出来事)」というものへの興味と、

逆にそうではない「欲望や期待が混らない願い」、つまり「祈り」という言葉で言い表される類の心情に対して圧倒される気持ち、みたいなことがあるのだと思う。

前者の興味や「欲望と動機付け」みたいなことは自分自身が慣れ親しんだもので、「他者への期待」を意識したのは2019年のマドゥ・ダスとの会話あたりからかな。

後者は逆に、自分にはわからないもの。でもあります。

わらしが言う、旅館に訪れる人々の「お願い」というのは前者の方で、「こうなりますように」「こうなりませんように」という欲望や期待を正当化してくれるなら、人は別にそれが心霊現象であろうと、物語であろうと、縁起であろうと、AI生成の言葉であろうと、なんだって構わないのだと思う。

欲望や期待があるから、目の前の人の言葉を言葉のままに理解することが難しくなるし、目の前の人をその人のままに見ることが難しくなる。

同時に、他者の「欲望や期待はよく見える」のに、他者の「祈りは見えづらい」。

自分に向けられた(欲望や期待が入り込まない)祈りのような願いというものは、ほとんど得難いもののような気もするし、

一番それが起こりやすい状況はもしかしたら、生まれた直後の子を抱いたときの親の心情なのかもしれないけど、それだって事情によっては100%そうとは限らないし(わらしはそのパターンが当てはまらなかった例ですし)。

だから、わらしが、

わらしに対して150年間、後悔や自責の念から派生した「欲望や期待と無縁の」心情でもって見続けてくれていた「れい」と、れいの気持ちを「見た」とき、口をついて出た「お願いをしてくれないから…!」という言葉と、

わらしが圧倒されたであろう尊さ、みたいなことに、私は胸を突かれたのだろうなあ。

そんなことを考えながらの帰り道、ふとその日の午前中に見たTO OV cafeでのpaterさんの個展を思い出しまして。

paterさんは本個展後は実名で活動していくそうですが、なぜそうするのかという理由に触れている文章からは、自分の名前に対する親の願い、みたいなことも読み取れる(上のリンク先から読めます)。

「子に名付ける」という行為の背景にある願いは「こうあってほしい」というものではあるけれど、あまりそこに欲望が入り込まない「無私」に近いものであるし、

子どもが一度はそうするように、親にただ自分の名前の意味を聞いただけでは、そこにある(名付けた瞬間にあった)願いは「見えない」ものなのだと思う。

そして、私も、正直なところを言えば「見てしまったら…」という畏れのようなものが先立って、そこはライトにぼかした感じで行こうとしている。

でも、やっぱり何らかのタイミングでそれを「見た」人は、例えばpaterさんのように何らかの変化があるのだろうし、そういう人が他にもたくさんいるんだろうなー、と。

と、ここまで書いて、

そうだ他の人は本作品をどんな風に受け止めたのか見てみようと、こちらをチェック。

上でかないりょうすけさんが触れている

現実と向き合い時に乗り越えるために、わたしたちは現実とは別の「おはなし」を用意し、それに沿って世界を理解しようとする。この作品に登場する事物にもそうした物語の作用を引き起こす力を持ったものがある。たとえば日記は文字通りその日にあったことを整理して記録するもので、それ自体が物語だ。

という部分、

これもまた自分の興味関心の一つで、自分の場合は『ライフ・オブ・パイ』やカロリン・エムケ『なぜならそれは言葉にできるから』のように「極限状況を物語る」ことに対して興味の重心があるのだけど、

この流れでかないさんの文章を読むと

「世界を理解するために物語る」ことと「世界を自身の欲望や期待に沿って理解するために物語る」ことの違いって何だろう?という疑問が。

さらに、

そういえば劇中「物語よりも事実がどうのこうの」みたいな台詞があったと思うのだけど(遠い記憶…)、あの台詞と最後に追加されたというシーンの構造は、かないさんが上記の後に続けて言う「他者の物語を見せるメディアである演劇、そしてその観客にとって無関係ではいられない事柄」ってあたりへのリンクがあるような…?

んん?

ちなみに、先に出てきた観劇をご一緒した知人は

とツイートしており、かつ観劇後にあれこれ話す中でとても興味深い問いを抱いたりもしていたので、彼の本作に関する文章(noteがあるんだよ)も読みたいところであります。

私は「お願いをしてくれないから…!」の一言があったから、そこからあーだこーだ考えることへとつながったけど、あの一言がなかったら、多分かないさんが語るようなフックにひっかかることもなく、ふわっと見て終わる感じになっていたのだろうなーとも思うので、本作がピンとこなかった人とも話してみたいですよねえ。

なんにせよ、作品について話すのは楽しい。観客の楽しみ。

(編)

 

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA