昨日は、まず午前中にSmall Citizens『Abana b’amazi』@Zoo Gesellschaftshaus

ブルンジ、ルワンダ、ケニア、コンゴ民主共和国のパフォーマーによる若い観客のための作品。たくさんの小学校低学年の子たちと観劇したのですが、素晴らしかったです。

かつて豊かだった村の水資源が干上がり、困窮した村人が水を買わねばならない場面で、サラリと子どもの人身売買の描写が差し込まれた瞬間はドキリとしたし、胸が痛かったな…。

その苦しさを前にして、涙を集めることで奇跡が起こるのですが、横の子どもたちもパフォーマーと一緒に「涙を指に乗せてパチンと指を鳴らす」仕草をしていて、

とても美しい優しい祈りが劇場内に満ちていく様子に、リアルに目が潤んでしまった次第。

終演後の質問タイムも良かったです。ほのぼの。

水問題については、『新しい地政学』で読んだナイル川の巨大ダム問題のことも思い出しつつ。現実の政治の場では「涙」は全く役に立たないのだけど、あらゆる境界線を超えて他者の苦しみに手を差し伸べようとする大切さが、『Abana b’amazi』の魔法の時間には込められていたような気がしたのでした。

夜はSaar Magal『10 Odd Emotions』をフランクフルト劇場で。

「シャウシュピール・フランクフルトとドレスデン・フランクフルト舞踊団、そしてサール・マガルの指揮の下、フリーランスのアーティストたちの国際的なコラボレーションによって発展した現代身体演劇」とのこと。

劇場に到着すると、劇中ドイツ語で語られる部分の英語版をDLできる案内があったので、開演前の短い時間にさっと読みつつ。

冒頭はぎくしゃくした動きのマネキンたちをバックに、1945年に発表された18〜20歳のアメリカ人女性の、現代的で性的に成熟した身体の「平均または標準」に関する文章が朗読。「望ましい身体」が社会に出現したことが語られる裏で、マネキンたちが徐々にきわどい動きをし始めて、なかなかの不穏さだ!

続いて朗読されるのは、キャリル・チャーチルの2009年の戯曲『Seven Jewish Children』。

直接的な言葉は出てこないけど、ホロコーストからイスラエル建国、パレスチナとの紛争にわたる70年間を背景に、暴力について娘にどこまで語ればいいのか、語らないでいるべきか苦悩するユダヤ人の親の姿が描かれているのですが

上のリンク先Wikiを読むと、発表当時にこれが反ユダヤ主義的であると糾弾する人と援護する人とで、なかなかの物議を醸した作品だったのでした。

援護する側の意見には、イスラエル政府や国家としてのイスラエルを非難することは反ユダヤではないし、同時にパレスチナを非難することは反アラブではない。というものもあれば、そのコミュニティのあり方に対する非難はコミュニティ内の当事者によってされるべきだった、というものも(チャーチルはイギリス人)。

あと複数のユダヤ人の親が出てくる構成の中で、自分の子どもが守られるならパレスチナの子どもが死んでも構わない…的なことも語られるのですが、これに対しても援護側のユダヤ系アメリカ人の意見として「一人最悪なユダヤ人が出てきたからと言って、それが劇作家の全てのユダヤ人に対する声明だとみなす考え方は間違っている」というものも。

ごつい…

重い…

でも、ふと思ったのですけど、ユダヤ博物館へ行った時のブログに書いた時事通信の相馬さんインタビューの本演劇祭での経験に関する「「「反ユダヤ主義」にちょっとでも触れる、嫌疑が掛かりうるものは、すべて排除されます」の部分、

この作品は排除されなかったんだなーと。

主催者がつくるものだからその辺は周到に考えられているのだと思うと、一度議論を呼んで賛否が出揃っている過去の炎上案件を、明確な目的をもって引用する分にはOKなのだろうか。

非常にセンシティブな問題だけに、過去の議論を知り尽くしたドイツ人がつくる分にはOKで、外国人がにわかにそこには触れてくれるなという感じなのだろうか。わからん。

話戻り

後半朗読されたのは、ドイツ領南西アフリカで植民地軍が先住民族に対して行なった虐殺について、それを当然のこととみなす指揮官の日記からの引用文と

さまざまな時代と土地に生きては死に、また転生する「エイダ」という女性を描いたSharon Dodua Otooの『Ada’s Room』という小説から、死に瀕している女性の頭を撃ち抜くシーンの引用文。

ごつい…

重い…

昨夜の観劇時は、もちろんこういった背景までは知りようがなかったのと、直前に文章をさっと見ただけで頭に入りきらなかったのとで、断然身体表現の方に目が行ったのですが

さまざまな感情を起こさせる動きは非常に眼福で、特に中盤のガッと見せてくるシーンは無茶苦茶格好良かったです。

今これを書きながら昨夜の動きを思い返してみると、「他者の身体が暴力を向けても良い対象として異物化されるとき、そこにはどのような感情が潜んでいるのか?」ということを考察するような時間だった気がするなあ。

最後、めちゃ意表をつく展開というか演出に思わず口が開いたのだけど、今考えると

あれはまさに身体から身体への転生という気もするし、異物化されていない身体とは人生においてあの瞬間しかないのでは、という感じも受ける。

ドイツ語を理解しない自分ですらスタンディングオベーションな作品だったので、ドイツ語で語られた言葉を理解して、同時にあの動きも観ていた人たちにとっては、さぞやさぞや。

いやあ、凄いものを観ました。

※フランクフルト滞在のブログはこちらにまとまってます。

(編)

 

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