自分が初めて飼った猫のぺぺ(ソマリのオス、2020年5月で13歳)が、昨年7月1日に亡くなってから、1年が経ちました。

去年の今日のブログ

姿形がこの世からなくなっても、ずっと心の中にはいるから、この世にいない時間が1年も経ってしまったのだと思うと、不思議な気持ちになるものですね。

心の中では、例えばこの写真のような感じで、いつでもそこにいるぺぺの姿を思い起こすことができる。

人間のこういう想像力は、素晴らしい授かりものだなあ。しみじみ。

あとやっぱり、ぺぺの毛(火葬する前に少し切っておいた)とひげ(落ちてた)、骨を手元に残しておいてよかったなーと。

この世に姿形があった頃の痕跡。昨夜は宝箱から出して、おひげとか顔にツンツンしてしまいました。

少し話変わり

そうやって大切な存在を亡くすという経験をして、ふと思うのですけど、

例えば猫の場合、生後1年で成猫の仲間入りをして以降はほとんど見た目に変化がないので、自分がどれだけ歳を取ろうが、上のようなぺぺの姿をその時々の時間軸の中で思い起こすことで生まれてしまう悲しみは、ない。

のですけど、

これが人間の子どもの場合、どんなに月日が経っても心の中の我が子は幼いままというのは、しんどいだろうなあ、と。

失った存在が常に心の中にいることは同じでも、「時間が過ぎた」ということの残酷さをひときわ感じるのは、子を失った親なのかもしれません。

あと、やっぱり、自分の猫のように何カ月か前に余命がわかって、死までの時間をずっと一緒に過ごして、死の瞬間も見届けられたことによる救いの部分は大きい。

特に自分は2016年以降、どうしても自分に必要なこととして非常に自分勝手に過ごしてきて、猫とも離れて過ごしていたから、最後の3カ月間片時も離れずに過ごせたことで、「お別れはとても寂しいけれど、ゆっくり眠ってほしい」という心境へ至ることができ。

「あのときこうしていれば…」と後悔する気持ちを持たずに済むよう全力を尽くせる時間を持てたから、自分を許せる気持ちにもなれたけど、死がある日突然訪れたとしたら、悔いても悔やみきれない思いが残って辛すぎるなと。

だから、お別れまでの時間がある程度持てるということも、残される側には非常に大切なことなのだと思います。

そんなことを思うと、事件や事故で愛する人を突然奪われた人の悲しみと、その残酷さはいかほどか…。

ふー。

去年の日記を読み直すと、ぺぺの死後1カ月間は本当にしんどさが滲み出ているのだけど、こんな発見こんな出会いを経て保護猫を迎えてからは、ぺぺの分と合わせて2匹分の愛情を向けることで癒されてきたのだなあ。

こちら現猫のビリー。

(ビリーという名前の由来は、譲渡会で一番のビビリだったから。)

1日1日、よく寝てよく食べ、よく遊んで、幸せに生きておくれ。

あ、猫のいる生活を考えていらっしゃる方などいましたら、ぜひニャン友さんの里親募集の猫なども見てみてください〜。

※お山関係のまとめ読みはこちらからどうぞ。

(編)

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