『ウーマン・トーキング』をキノで観てきました。

ほとんど前情報なく観たもので、最初は時代設定的にかなり昔の話なのかと思っていたのだけど、途中に2010年の国勢調査エピソードが入ってきてびっくり。メノナイトの人たちの話だったのかー。

(でも、今ちょうど読んでいる『わたしのペンは鳥の翼 アフガニスタンの女性作家たち』のことも思い出しました。現在だって「いつの時代?」と思うような抑圧を受けている女性たちはいる。)

性暴力によって身篭ったオーナ(ルーニー・マーラ)は、お腹の中の子のことを「愛している」と言い、なぜ愛から暴力が生まれるのかという自身の問いに対して、権力や教育が関係しているのではないかと考えている。

自分を襲った男も、元は自分のお腹の子と同じ、無垢な存在だったのだ、と。

男性が成長する過程で、コミュニティ内で有害な男らしさや女性蔑視の価値観を植え付けられていく様に、太田啓子さんの『これからの男の子たちへ』のことも頭をよぎりつつ。

『ウーマン・トーキング』では、女性たちがタイトル通り話し合う中で、自分を見つめ、考え、お互いに勇気づけられ、現状を変えようと一歩を踏み出す過程が、珠玉の言葉で紡がれていきます。

特に、マリチェ(ジェシー・バックリー)が酔った夫から凄まじい暴力を受ける中で、夫に対して「去ること」を言ってしまった理由を皆の前で打ち明けるときの、彼女の言葉には泣いた…。

彼女にとっては、夫に対して初めて、自分の意思でもって抵抗した瞬間だったのだから。

劇中の事件は実話を基にしていて、現実の顛末はこちらに詳しいのですが、現実において被害にあった女性たちが顧みられなかったことへの応答として、『ウーマン・トーキング』は素晴らしいアンサーを提示したのだと思う。

メノナイトの信仰と赦しに関する、北村紗衣さんの素晴らしいレビューもぜひ。

(編)

 

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