書きそびれていたのですが、トッド・フィールド監督『TAR / ター』も観ていました。

圧倒的な権力というものは、性別に関係なく、人間の持つ性質のどんな部分を強く引き出し、また、どんな欲望を惹きつけるのか。ということを考えるのに良い映画。

そして、作品や才能と人格を切り離して考えるべきかという点も、改めて考えてしまった。

本作のリディア・ターに関して言うと、彼女は実力で地位を築き上げてきたわけで、芸術に対する彼女の完璧な奉仕が、芸術を体現する自らに対する他者の完璧な奉仕の要求にそのまま反転するのは、わかるような気がする…。

しかし私たちが生きる社会には、もちろん芸術以外にも大事な判断基準があり、倫理的な側面が軽視されるわけにはいかない。

ので、彼女の他者へのふるまいが、暴力行為として罰せられるのは当然のことだと思う。

そうして権力は一瞬にして彼女の手から消え去ったけれど、芸術への奉仕は残り、新天地で再スタートを切るというエンディング。

(コスプレしてゲーム音楽のオーケストラ演奏を楽しむ文化があるとは!)

でも、リディア・ターには「芸術への奉仕」の道だけは残されていたけれど、彼女のハラスメント行為が原因で自死した女性とその遺族には何も残らない結末であり、加害者の社会的な再生と、被害者(遺族)のそれとのバランス…と考えかけて、そんなこと可能なのかな?という思いにも。

自分が生きるこの現実の社会も、常に加害者や権力のある側に優しい社会だと思うなあ。それって辛い…。

あと映画の中の人間関係が、露骨に利害関係のみの結びつき感出てましたけど、基本的に人の結びつきは利害関係だと思うから(害のある人とは積極的に関わり合わないのが通常だと思うから)、それに対しては、まあ、そういうものじゃないのかな。という感想です。

(世の中には利害関係を超えて関係を築ける人もいて、そういう人は少数だからこそマジ尊敬する。)

いろいろ考えると、

自分としては、権力からも他者からもとにかく距離を置いて関わらないようにするのが、誰のことも(直接的には)加害せず、利害なども考えず、一人で健やかに生きる秘訣である。

という、いつもの結論に落ち着いてしまうわけですが。ずっとお山にこもって生きていくのがいいっす…

なんか最後しょーもない感じになってしまった。

(編)

 

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