明治編を描いた『石狩平野』に続いて、

大正〜昭和編の『続石狩平野』、これまた一気に読みました。

めちゃ人間について学んだ感…。

いーーーーーろんな人が出てくるけど、男性なら、権力的なものに一切近づかず、牛(酪農)にひたすら向き合った夏樹が一番健やかに幸福に生きている気がするし、

権力的なものから除外されていた立場である女性の側からなら、やっぱりそういったものやお金などにも価値をおかず、貧乏でも「人間の内側にある生きるエネルギー」を信じて、世間の目で自分を見ることはせず、最後まで自分自身に対して目が曇らなかった鶴代や娘の明子、孫娘の雪子、

そして鶴代たちとは真逆のアプローチではあるけれど、同様に自分に正直に生きた多佳子に救われる思いがする。

浅ましさや卑劣さを感じさせる人物も多いけれど、そういう人たちがあけすけに語る処世術や、その人たちなりの信念といったものにも、読んでいて共感する部分はあるし、罪の意識を感じるにも能力が必要だと言われると、私はその能力を全く持ってないという…つまり自分は環境次第で獣性がどんどん出てきてしまいそうな人間であるわけで。

それゆえ地位や名誉といったものには関心を持たず、牛のことだけ考えた夏樹や、山椒魚のことだけ考えた荘太のような選択肢が、自分の獣性を出さない生き方として一番自分的にもフィットする。

ついでに言うなら、政治の場は獣性オンリーな権力闘争の場であるし、今も昔も人の弱さを利用して地位やお金を得ようとする人なんてごまんといるし、「世間の目で自分を見ない。自分自身に対して目が曇らないようにする。」のもSNSが発達した昨今では大変だ。

それでも、『石狩平野』『続石狩平野』に書かれた時代と比べると、何倍もマシな世の中になってるんだもんな。

(と思うと同時に、今このときに戦争や国家からの弾圧に苦しむ他国の人たちの悲しさと結びついて呆然としてしまう…)

一部の特権層のように安全な席に座っていなかった人が大半な世の中で、災害も戦争もとにかくなんとか生き延びて、後の世代に命をつないできた庶民はそれだけでえらいもんだ…。

もう一つ、

札幌で生きた鶴代から見た戦争の物語を読む体験は、今まで触れてきた戦争の世界とは違う受け止め方として、自分の中に入ってきたことも貴重な体験でした。

今自分が生きている街で生きた鶴代の眼差しが、時間を少しずらして今の自分の眼差しと重なるような、想像力の解像度がいつもより高くなるような、そんな感覚。

ちょっとこの二冊から受け取ったものが多すぎて、読み終えたばかりの今何かをまとめるってのが難しすぎたので、とりとめのないぼんやりした言葉をそのまま書いてひとまず終わりにします。

札幌市民は皆読めばいいと思う。

(編)

 

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