『北のおばけ箱2』のあとは、琴似へ移動してパトスで『Discord Disco 無限回廊』を。

先日OrganWorks『168428_4/Nothing/無為』のブログを書いたときにも触れた、森嶋さんや東海林さん、平原さんといった面々による作品ということで、楽しみにしていたのでした。

で、全然どんな作品か予想もついてなかったけど、豪華なダンサー他出演陣による素晴らしくエンタメなヘンテコぶり。

録音(を加工したものも)で流されるキャラが立った台詞と、「贅沢だな」と感じるダンサーならではの身振りに、目が爛々としてしまった。

個人的に特にツボだったのは、平原さん演じるトレーダーと思われる人物の語りです。専門用語のカタカナ英単語で過剰に占められている語り口は、それ関連の文章を訳すときにうっかりするとホントあんな感じになるから、余計に笑えた…。

「贅沢な身振り」というのは、例えば「普段無意識にしている歩くという動作は、身体中の筋肉をああやって細やかにフル作動しているのだなあ」と意識させてくれるような歩き方だったり、軽く腕を叩く仕草の一瞬に凝縮された全身の滑らかな動線だったり。

自分的に最高のクリスマスプレゼントでした。大 満 足。

ちなみに

観劇後のツイートで「やまびこ座とかでやったら子供大喜びな作品だし、演奏中の劇的な景色を見せたいと思ったな〜」と書いたけど、当日パンフを読むとコンテンポラリーダンスシーンの課題として「全国的に低年齢層の観客や演者が圧倒的に少ない」と書かれており。

もう少し広い層にダンスを発信できないかと考えて、コミカル×ダンス×サブカルチャー×デジタルな世界観(AI、ロボットやメタバースなど)を組み合わせた作品を試しに作ってみました。

のだそうです。確かに自分も上のツイートをしたとき、小学校低学年ぐらいまでの子どものイメージがあって、なぜか中高生といった年齢層は頭になかったのだけど、それは普段劇場でそういった年齢層の人たちを目にしていないからなのだと思う。(逆に小学校低学年以下になると、やまびこ座やこぐま座で目にしているので自然と思い浮かぶ。)

映画ならその年齢層の観客もいるわけで、本当はいてもおかしくない人たちの姿が、普段目にしないために自分は想像できなかったのですが、これって結構政治でも社会全般でも当てはまるというか、

「いるのに見えていなくて、いないことにされている人たち」がいて、結局見えていないから想像もできず、それゆえその人たちが可視化されるような(出てきやすくなるような)取り組みが増えていかないのだなあ、と。

上記の社会進出的な問題は、自由な作品創作とは全然違う話で、自分が言いたいのは「目にしていないとホントに想像できないね!」と改めて気づいた。という点なのですけども。

それはさておき話を本作に戻して、

デジタルネイティブな若い人たちが本作を見たら、彼らが普段親しんでいるエンタメに照らし合わせた「掴まれどころ」があっただろうし、それはまた自分とは全然違うのだろうなー。

逆に「同じものを見ているのに、そういう楽しみ方もあるのね!」という驚きは、そういうところからしか生まれてこないのだなあ、とも。

一つの作品をいろいろな文化背景のある人たちが見ることで、いろいろな「掴まれどころ」が見出される、という面白さは、自分の場合は映画作品でよく体験しているかもしれません。

あ、でもふと思い出したけど、2013年に『十月十日』をパトスで観たとき、舞踏のみならずダンス作品すら見るの初めて、な知人が書いた感想が、もう自分が観たものとはまるきり別の作品になってて、かなり読んでて楽しかった記憶が。(上記ブログに彼のブログへのリンク貼ってたけど、アクセス拒否になっちゃった。残念。彼の感想、読み直したかったー)

取り留めの無い話になってきたので、この辺で。

身体と動きの奥深さを毎度発見させてくれるダンサー、マジ宝!

(編)

 

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