シャンカル・ヴェンカテーシュワラン『犯罪部族法』をシアターZOOで。

2019年のシアターコモンズで上演されたときに、気になりつつ観れなかった作品だったので、まさかの札幌公演に驚くと共にとても楽しみにしていた作品。(ちなみにその年のプログラムで体験できた作品はこちら

冒頭、男性が静かに舞台上を手箒で掃く動きから始まるのですが、そうすることで少しずつイグサの断片が集まっていって、それをゴミ箱に捨てる。

その後も2回ほど、この男性は舞台上に落ちていた釘を見つけては、ゴミ箱に捨てます。

(アフタートークを聞いて思ったけど、観客からは意識されていなかったけど彼によって発見される釘やイグサの断片は、「そこにいるのにいないものとされる人たち」のメタファーとも言えるかもしれないな。)

この男性はカルナータカ州出身のチャンドラ(カースト外の出自を持つことが後にわかる)で、本作にはもう一人、デリー出身のアニドゥ(作品中ではルディと呼ばれていた気がする)が登場。

ルディは英語話者で、チャンドラはカンナダ語(とかなり限られた英語)を話すので、チャンドラがカンナダ語で話したときはルディがそれを英語に逐次通訳し、英語で語られたセリフにだけ日本語字幕がつきます。

作品は主にルディがチャンドラに子供時代のことを聞く形で進行し、その中でチャンドラがカースト外(※反差別国際運動が制作したパンフレットを見ると、不可触民とされてきた当事者たちが近代になって自ら「ダリット(壊された、抑圧された人々という意味を持つ)」という呼称をつけ、行政上は「指定カースト」と呼ばれている)の出自を持ち、

ルディは「カーストを意識した記憶がない」(=特権を持つ)側の人間であることがわかり。

質問を重ねるルディに、ある時点でチャンドラは「お前は何もわかっていない」と伝え、子供時代に働いていた農園でのある日の出来事を再現すべく、ルディがチャンドラを演じることに。

繰り返される「畑を耕す身振り」によって実際にルディの身体が疲弊していく過程に加えて、その出来事が起きるまでの1時間、1時間にインドのカースト制度が人権侵害であるという国際的議論が重ねられて語られます。

※ちなみに一般社団法人部落解放・人権研究所のこちらのレポートによると、

国際的には人種差別撤廃条約が人種差別の例として世系・門地に基づく差別を明示しており、インドのカースト制度や日本の部落差別がこれに当てはまると解釈されている。(略)しかし日本政府やインド政府は、「人種」には皮膚の色や文化、言語に基づく「民族」などしか含まれないとの立場から、世系・門地による差別は人種差別には入らないと抵抗しており、

とあり、本作で語られる問題はそのまま日本の問題でもあるわけですが。

WEB上で見つけた資料をざっと見ると、現在カースト制度は法的には認められておらず、指定カーストに対する留保制度なども定められているけれども、

トークでも語られていたように、人々の意識の面ではしっかり残っているし、権力中枢は上位カースト出身者で占められているので、差別はいまだ続いており、かつ上位カーストの人たちによるダリットの殺害も頻発しているそうです。

劇中、ルディが水瓶からカップに水を注いで飲むのですけど、カップに口をつけずに飲む様子を不思議に思いながら見ていたのです。でも、彼が最後にカップから飲んだときは、確かカップに口をつけていた。

国際交流基金アジアセンターによるシャンカルさんへのインタビュー記事を読んだら、

この国には不可触制の歴史があります。これは適切に定義されてはいませんが、憲法では違法とされています。インド人の水の飲み方を見るとわかると思いますが、多くはカップが口に触れないようにして水を飲みます。このしぐさを見るだけでも、身体的な接触を避けていると言えます。
私たちは挨拶するときに握手したりしません。私たちは両手のひらを合わせて挨拶します。こうしたことは、私たちの人生のあらゆる側面に存在しています。非常に不可視なままで浸透してしまっている。

とある。

そうして、私が本作で強く心を動かされたのは、実はカーテンコールのときに二人の俳優がしっかりと手をつないでいたことなのですが、その意味がこの部分を読んだときに強く迫ってきたというか。

ルディが「演じる身体」を通じて体感したチャンドラの苦痛、長い間差別され続けることの、その耐えがたい時間の長さ、

人々に浸透した不可触制の意識やシステムを超えていくことを、ルディに決心させたのではないかと。(トークの中で「反カースト運動は反政府運動と同義であるため、行動を起こすことが極めて難しい」と語られていた)

それが最後のカップに口をつけて水を飲むこと、そのあとに水瓶をチャンドラに渡そうとすること、その水瓶はチャンドラが受け取ろうとしたときに落ちて割れてしまうのだけど、そうやってシステムがそう簡単に変わらないことが示唆されつつも、それを超えて、ルディとチャンドラは手をしっかりと携えて前を向くのだ、というお互いの意思表示のなんたる力強さ…!!!

綿密に社会に張り巡らされた差別構造は、確かに個人が簡単に変えられるようなものではないのだけど、一人の人間として抗う姿勢を示すことは、それとはまた別の話だなあとしみじみ思ったなあ。

やっぱり北海道だと和人が行ってきたアイヌ差別の歴史があるし、先に挙がっていた部落差別や、在日の人たちへの差別の歴史もある。ハンセン病や水俣病といった病気に苦しむ人たちへの差別もあるし、キリスト教徒への差別の歴史もある。(枚挙にいとまがないな!)

しかしそんな中でも、私は(国内では)差別を意識した記憶がない(=特権を持つ)側の人間であるわけです。(あ、性差別ならあるか。)

終演後のホールでシャンカルさんと少しお話できたので、差別する側に属する人が、差別されている側に属する人と共に歩もうとするときに、差別する側に属する人にとって大事なことは何だと思うか聞いたら、「自らの特権を知ること」で。

システム的な特権を意識すると「対等」の困難さを感じてしまうけど…と言うやりとりを駆け足でしたのですけど、まず目の前の人を理解する過程があって、お互いに一人の人間として手を握る。

とういうことの、一人一人の積み重ねと広がりなんだろうな。

どうしても「正しい振る舞いとは何だろう」みたいなことで頭でっかちになってしまって、「それならいっそ関わらないほうが…」となりがちだから、そういうことではないな、と改めて思えてよかったです。

インドのカースト制度を取り巻くことも、もう少し知りたいなー。後追いしよう。

(編)

 

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