本郷新記念札幌彫刻美術館で開催中の「高橋喜代史展 言葉は橋をかける」へ。

キーボーさんの展示を見るの、2019年の「1つの言葉、3つの文字」以来です。

上のツイートの右上写真にある映像インスタレーション《GOOD NEWS》が出迎えてくれるのですが、これめっちゃキャッチーで、まさに「マスコット的」(作品解説より)。

ノリの良いポップで浮かれた感じが楽しい。

続いて、第3回本郷新記念札幌彫刻賞を受賞した《ザブーン》の模型などを横目に、映像インスタレーション《言葉をせおう》。

ここでも、前述のマスコット的《GOOD NEWS》でも、さらにこの後の映像インスタレーション《10万年をせおう》にあった平面作品の文字「NOT IN MY BACKYARD」でも思ったのだけど、

文字フォントや文字の並びが纏うリズムからイメージされる雰囲気は、ちょっと洒落てて、軽やかなんですよね。SNS等で良い感じに大勢へリーチするならもはや必須な、今っぽい雰囲気。

なのだけど、

《GOOD NEWS》で言えば、言ってることと見えてるものはズレていたし(でもそれがノリで流れていってしまう)、

《言葉をせおう》で言えば、その看板を背負っている映像中の本人は、大きな看板が風に煽られてまともに歩けず、それでも必死で歩みを進める姿が滑稽でもあるわけです。

(さらに、煽られる看板をコントロールできないので、仮に周りに人がいたとしたら危害が及びそうな。※実際は周囲に人はいません)

世に出回る言葉のうち、それが広告でも個人のSNS上での発言でも、「より伝播するような言い回し、耳障りの良い言い回し(というかマナー?的な?)」が確立されていて、言葉は軽やかに拡散していくけれど、

その拡散が発言主の足元さえ揺らぐような風を起こすという、良くも悪くも軽い発言に見合わない大きな負荷を受けがちな昨今の状態が描かれているようでもあるし、

一見洒落ているけれど、実は誰かにダメージを与える可能性を持つものが拡散されているのかもしれませんよ、ということでもある気がする。(何と言うか、洒落たビジュアルと中身の乖離みたいなことに、自民党のコラボレーション広告を思い出してしまった次第。)

これ、フォントが異なれば、また全然違う印象を作品から受けたのかもしれないな。

無印的なフォントで、しっぽりと1行で看板の真ん中に「人はみな それぞれのカンバンをせおう」だったら、これはまたこれで現行のフォントとは違うギャップが映像中で生まれるような。筆文字とか、いろいろなフォントで想像してみたら、ちょっと面白い。

と考えると、この軽やかなフォントのチョイスの意図ってなんだろう?とも思ったり。

話戻り、

《言葉をせおう》以上にあれこれ考えてしまったのが、《10万年をせおう》で。

ちょうど今、ヘレン・ジェファーソン・レンスキー『オリンピックという名の虚構 政治・教育・ジェンダーの視点から』を読んでいるところで、(1回読んだだけでは全然消化できなくて、今2巡目)この本で書かれていることにも引きつけて展示を見たせいかもしれません。

《10万年をせおう》は、原発から出る高レベル放射性廃棄物の最終処分地選定の文献調査が進む寿都町や神恵内村の役場前で、ごみ袋の保管を求めるプラカードを持って立つ様子を撮影した映像と、前述の「NOT IN MY BACKYARD」という文字入り平面作品等で構成されたインスタレーション。

映像中、役場の人が出てきてキーボーさんに何をしているのか尋ねるのだけど、「特に何かに抗議をしているということではないんですね?」という確認の後、しかしそれでも「え、それで、これって何ですか?」みたいなやり取りがあって、

「ああ、芸術作品なんですか」と受け入れる役場の人を見たとき、「わからないことは考えようがないから、受け入れてしまう」のって、芸術も高レベル放射性廃棄物も同じかもしれないという思いがふと。

だって、地表から300m以上深い地層に埋められて、天然のウラン並みになるには数万年〜10万年かかると言われたら、否定するにしろ肯定するにしろ、漠然とした感覚からの判断にならざるを得ないような気がしません?

黒いゴミ袋を足元に置いてプラカードを掲げる目の前の男性が「これは(芸術)作品なんです」と言ったら、「芸術」という漠然としたイメージが脳内を覆って「ああ、そうなんですか…?」みたいな。

自分的に、このやり取りがハイライトでありました。

私は高レベル放射性廃棄物に関しては、もうすでにあるわけで、どこかが必ず最終処分地にならざるを得ないわけだから、寿都町や神恵内村が文献調査を申請したことについては「そうなんだな」という感じなのだけど

このまま従来のパターンで、住民もなし崩し的に受け入れ決定みたいな事態、以外の道筋はないものか、とは思います。

そして、調査で払われる交付金も、以前観た『福島三部作』で描かれていたような感じになるのだとしたら、過去に学習しないで同じ道を辿るようなパターンを回避する術はないのだろうか、とも。

調査地の自治体や近隣自治体の間で交わされる言葉が、やれ「(交付金を)受け取る」だの「辞退する」だの「(これまた耳障りの良い)毅然とした言い回し」だけが上滑りしている状態なら、果たしてそれは「その言葉を背負っている」と言えるのだろうか。

日本の他の自治体があっと言うような、将来の手本となるようなまちづくりプランを近隣自治体と連携して交付金で試すとか(そういうしたたかさが地方にあっても良い気がする。)、反対する人たちの声もきちんと聞いて整理して、住民が長短を天秤にかけて判断できるような道筋を作ってほしいと思うなあ。

(次の段階の「概要調査」に進む前に住民投票を実施する予定だそうです。)

ちなみに札幌も似たような状況としてオリンピック招致問題があって、オリンピックもなかなかに複雑で大きくて、「オリンピック精神」と言われると脳内を神話的なイメージが覆って「ああ、そうなんですか…?」としか言えなくなってしまう。

私はオリンピック招致に関して住民投票をやってほしい派(というか、スケジュール的に可能なのだろうか?)で、となると寿都も札幌もわりかし似たような状況というか。

ボストンをはじめ、いくつかの都市は住民投票で反対派の声が多かったため招致から撤退していて、「ボストン市民は開催の誇りや栄誉をただ受け入れるだけでなく、事実を査定すべきだと考える」とこちらの記事に書かれているのだけど

安全神話、オリンピック神話、成長神話みたいな虚構が脳内を覆って思考停止してしまうパターンからの脱却は可能なのかしら…。

そして、

硬直しがちな反対の立場と賛成の立場の間、大きすぎる問題と個人がそれに対して抱えるモヤモヤの間、過去と現在と目指す未来の間

言葉が橋をかけるのだとしたら、その前にまず現実的に長短を話し合えるような社会があってこそで、その状況でようやっと「橋をかける」言葉も生まれるのではないかと思った次第。虚構にどうやって橋を架けろと言うのか…。

札幌も来年1月から予定しているらしい(←ニュースで見た)「対話の場」、どんな感じなんだろう〜。行く気満々です。

最後オリンピックな札幌話になってしまいましたが、キーボーさん展示のおかげで構造的なこととして寿都と結びついて、ずいぶんいろいろと考えてしまいました。

なんなら、軍事施設や核施設等の忌避施設の設置をめぐる「NOT IN MY BACKYARD(我が家の裏庭にはお断り)」だって、「他国の他都市でオリンピックをする分にはいいんじゃないの?」と思ってしまう自分がいたりもするわけで。

寿都の住民投票もどうなるんでしょうね。小さな町ならではの人間関係の難しさもあるかもだけど、それぞれが既成のフォントではなく自分の手書きの言葉を背負って、どちらか思う方に投票できることを願いつつ。

(編)

 

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