年末年始に読んだ本は、カロリン・エムケ『なぜならそれは言葉にできるから 証言することと正義について』

以下、みすず書房の紹介ページ(上のリンク先)から引用。

暴力をうけた人は、それを話すことができるだろうか。周囲の人はそれを聞くことができるだろうか。
暴力は、日常の「こうであるはずだ」という約束を壊す。世界で生きていく前提が崩れてしまうのだ。だから、何が起こったのかを認識するのにとても時間がかかる。その話を聞いた人も、言われたことを即座に理解することはできない。
けれども、暴力は世界中で蔓延し、ある日突然被害者になる人は増え続けている。世界への信頼を打ち砕かれた人が、ふたたび世界へと戻って来られるために、私たちは何ができるだろうか。
著者エムケは戦地を取材し、さまざまな人と出会う。そこから、「語ること」「聞くこと」「聞いたことを伝えること」について考えていく。
語ることを強いるのではなく、言葉にできないとするのでもなく、「それでもなお語る」ことを探ること。口ごもりながら、断片的に語るとき、そこには空白があり、謎があるかもしれない。だからこそ「それ」は言葉にできる。
語りの首尾一貫性ではなく、聞く人が「それ」を聞けるかが、世界への信頼を取り戻す鍵となる。
出会った人々の言葉とともに、旅するエムケの生活や思い出が、普遍的な考察へとつながっていく。温かく、深みのあるエッセイ。

特に、「暴力は『それに苦しむ者を誰であれ物体へと変えてしまう』」ということについて触れた「物体への変身」という章から、人間を完全に変形させ、損なう力に対する抵抗を可能にする道具や方法について書いた「二重化、または ーリズム、儀式、物、脱出」という章は、今世界で起こっているいろいろなことに思いを馳せながら読みました。

自分にとって「別の世界を思い出させてくれ、思い出や空想への逃避の助けとなる物」はなんだろうと考えると、多分これまで観てきた舞台芸術作品の記憶なのだと思うなあ。

それか、今のところ気づいていないけれど、生活の中に存在する何かしらのリズムがそれに当てはまるのかも。

あと「他者の苦しみ」という章で書かれていた、「同情、慈悲、慈善の物語に、『自分』という概念を登場させてはならなかったのかもしれない。同情心や連帯意識のような、他者の苦しみに関する概念は、最初から『私』という概念とは切り離しておくべきだったのかもしれない。」という部分にもハッとしました。

これって、自分自身が不当に扱われている場合に意味をなさない「自分がそうされたらどう思う?」「自分がその立場だったらどう思う?」という問いの限界をズバリ指摘していると思う。

そして筆者がさらに問いかける「隣人を隣人として認識することを可能にするのは、自分自身との相似なのだろうか?」という問題も。

とにかく何度も読み返したいザ・名著であります。カロリン・エムケ、もっと読みたくなって『憎しみに抗って――不純なものへの賛歌』も注文してしまった。

そして読書中の一枚。

夕方のこの眺めも好きです。

(編)

 

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