今日は札幌劇場連絡会招聘公演 劇団市民劇場『変身』をパトスで。

小説だと自分の目はグレゴールに寄るのだけど、本作では彼の家族から「次に異質なものになるのは自分たちかもしれない」という切迫感を感じられる描写があり、いろいろ考えてしまった。

劇中「誰かがボールを投げれば、誰かに当たる」というセリフが語られるのだけど、社会や自分たちが慣れ親しんだ当たり前、が突如異質なもの(病気や事件、何かしらの変質、あるいは何らかの行動)によって侵食される事態は誰にも起こりうるし、人為的なものであるならその矛先は上のセリフのように「誰かがボールを投げれば、誰かに当たる」ものである。

その場合に、当事者(グレゴール)ではなく、その周囲にいる人たち(家族)の苦悩、混乱、被害者意識、以前の「正常と思っていた」状態を取り戻したいという渇望、を本作で多く受け取ったというか。

重いものを背負いたくないから切り捨てる妹の冷酷さは自分にもあって、それは自分が切り捨てられたときに嘆き悲しまないことと引き換えだなとも思ったのだけど、それって他者の愛情を信用しないことと同義な気もするし、それって良いことなのだろうか。わからん。

あとぼんやり思ったのは、例えば長く続いた一人っ子政策の歪みで成人した子どもに過度の負担がかかる中国の場合、『変身』はどう響くのだろうか。めちゃ心理的にはグレゴール状態な人も多いのではと推測するのだけど、どうかな。

あと韓国の観客は『変身』にどんな状況を重ねるんだろう?

今日は観劇後に劇団との交流タイムが設けられていて、上のことを聞いてみたいなと思ったりもしたのだけど、結局早めの帰宅を選んでしまった。

海外からの招聘公演、ありがたい限りであります。

(編)

 

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