森達也監督『福田村事件』をシアターキノで。

これまで植民地支配下の朝鮮半島における朝鮮人と日本人の関係や視点には主に書籍を通していろいろ触れてきたけれど、当時の日本社会における朝鮮人への眼差しや雰囲気などを本作を通して知ることができたのは良かったです。

映画ジャーナリストの金原由佳さんの森達也監督へのインタビューがとても良くて、ぜひ読んでほしいのですが、自分が特にきついなあと思った「有害な男らしさ」が顕著に現れる自警団結成以降のシーン。

あいつらがきたら俺たちがやっつけてやるというような、勇ましい村の空気に乗りたくてしょうがない夫や息子たちに対して、彼らのはやる気持ちをどう抑え、そらすのか、村の女性たちの感情が描かれていました。

とインタビューで触れられていて、そこは自分も見ていて少し救われた部分でもあったのです。

逆に、夫を殺されたと思い込んでいる女性は加害側に回るのですが。

そして自分があの場にいたとしても、殺気立つ周囲の雰囲気に気圧されて、行商団の前に立って守ろうとはできなかったかもしれない。とも思ってしまう。

100人以上の単位になると、その中で、ひとり、反対の声を上げるっていうのは本当に難しい。みんな、気が立っていますから。逆に声をあげたら、暴力が自分に向かってくるかもしれない。始まったらもう、止めようがないんです。だから、いかに、暴力が始まらないようにするしかない

「いかに暴力が始まらないようにするか」。自分のような弱い人間にもできることがあるとしたら、もうそこしかないなあ、と。

被害者の1人が殺される直前に「俺は何のために生まれてきたんや」とつぶやくのですが、これは本当に悲しかった…。

そして、警察が到着して行商団が日本人であると伝えたとき、自警団の1人が「お国のためにやったのに…」と泣き崩れるのですが、このメンタルにも心の中でモーレツに突っ込んでしまいました。

自分がやったことなのに、真っ先に自分を責めるのではなく、出てくる言葉が「お国のためにやったのに」。

こんなんばっかりだから、加害者として自らを振り返り反省するという行為を、いつまでたっても日本はできないんじゃないだろうか。

もう一つ、やっぱり、弱い者がさらに弱い者を虐げるというか差別するというか、そうでもしないとやってけない精神状態(を生み出す社会構造)も描かれていて

私は、自らが差別される経験が、同じく差別される人の気持ちの理解と連帯につながる人間でありたい。

間違っても、他者を見下すことで自分を上げるような錯覚を覚える人間にはなりたくない。

自分の価値を自分できちんと認めることも実際は難しいプロセスだけど、自分の価値を他者に委ねてしまうことでそこに本質的には存在しない優劣構造が生まれてしまい、差別にもつながっていくのかなあと思った次第。

やだやだ。

(編)

 

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