この日は午前中にレバノンからのCollectif Kahraba『Dream of a Forgotten Forest』を見るため、隣町オッフェンバッハの会場Hafen2へ。

映画上映や音楽ライブを中心にいろいろやっているカフェ併設のアートセンター的な場所で、開場までの間コーヒーをもらって外に出ると、ニワトリと羊の姿が。

素敵だなー。

Collectif Kahraba『Dream of a Forgotten Forest』

20分の作品なのだけど、プログラムの中で唯一の「オブジェクトシアター」とあって楽しみにしていたのです。

火、砂、木、水、映像、音楽、手や人形等が素晴らしく繊細な世界をつくりあげていて、一瞬で魔法的な時間にさらわれつつ。

少女が眠っている間の森の精霊たちとの交感は、演劇祭の一連の作品を体験して、その流れの中で観れたことで、より一層感受できたような気がします。

いやあ…素晴らしかったなあ…もう1回観たい…。

夜はFrankfurt Labで

タンザニアからのFlinn Works & Asedeva『Ultimate Safari』

セレンゲティ国立公園のVR体験(風やほのかな匂い付き)と、その合間に挟まれるVRセットを外してのパフォーマンスとで構成された本作。

野生動物の保護自体は良いことだけど、その陰には一方的に土地に線を引かれ、保護区内の住民(マサイ)は立ち退きを命じられて生計も失うという状況がある。

さらにマサイにとって武装したレンジャーは脅威でもある。

そうやって自然保護を名目にする一方で、タンザニア政府には狩猟会社との密接な結びつきもあり、例えばアラブ首長国連邦の狩猟会社によるトロフィー・ハンティングも行われている。

観光業や狩猟会社からの資金提供が政府の重要な収益になっているため、本来遊牧民であるマサイの人たちは居住区域をますます制限され、権利が侵害されている。

作品を通してマサイの窮状を知ることになりながらも、途中「このお金でマサイをサポートできる」という売り文句とともに勧められるマサイのブランケットやアクセサリーを、買わない(サポートしない)居心地の悪さも味わいつつ。

さらに、会場配布のパンフレットを翌日じっくり読む中で、Mordecai Ogada氏が2023年のインタビューで

「野生動物の保護が観光と結びつきすぎている。保護は観光のためになされるべきではない。長年、本や映画などで保護のロマンチックな観光の側面が語られていることからわかるように、野生動物は大切だから保護されるのではなく、人を楽しませる(観光)ために保護される。そして地元住民は、野生動物のエンタメとしての価値からは常に排除される」

と語っていて、他に紹介されているいろいろな人の発言や文章も併せて、この保全モデルが植民地主義的で人種差別的なシンボルになっている、と。

北海道から来ている自分も、かつてアイヌを限られた居住区域に追いやり、彼らの土地を収奪した和人の子孫だし、

「本や映画などで語られる保護のロマンチックな観光の側面」「大切だから保護されるのではなく、人を楽しませる(観光)ために保護される」という部分を自らの足元に反映させると、結構…その表象のされ方に植民地主義的で人種差別的な視点が潜んでいないとは言えず…ぐへえとなるな。

観光。

観光としての価値を上げるために排除される存在と、価値を上げようとする側が誰で、その人たちはどんな視点を持っているのか、について考えてしまった。

ちなみに会場へ行く途中の駅で目にした言葉。

シンプルな真理なのに、世界の構造は途方もなく複雑だ。

※フランクフルト滞在のブログはこちらにまとまってます。

(編)

 

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