THEATRE MOMENTS『遺すモノ-楢山節考より-』をコンカリーニョで。

私は楢山節考がどんなお話かというのは知っていて、それゆえに原作や映画を観るのはしんどいなあと避けてきた身なので、作品として触れるのは『遺すモノ-楢山節考より-』が初めて。

で、本作。

冒頭、ふーんと見ていた紙芝居が鮮やかに作品世界に切り替わった瞬間の劇的さ…!そこから一気に没入したのですが、上のPVからは自分的に今一つ伝わってなかった木枠使いも、舞台上で引き戸になり、農具になり、ときには赤ん坊になり…とその魅力がストンと入ってきた感。

村全体の貧しさゆえ、70になると山へ行ってそこで死ぬしきたり以外にも、年をとっても歯が丈夫できれいに残っていることを恥とする価値観や、そのためおりんが自ら歯を砕いて「これでワシも立派な年寄りじゃ」と喜ぶ姿もきつかったなあ。

それ誰目線?とか、誰ルール?といったものがはびこる小さな共同体、最悪だ…。

で、

おりんが山へ行く日を早めることを決めてから、苦悩する息子の辰平を見て、おりんが孫の嫁に「人はしきたりがあるから決められる(これって究極的に言うと「仕方ない」と同義だと思う)」と言うんですね。

このセリフについて、アフタートークで佐川さんと中原さんに「人はしきたりがあるから決められる」ということについてどう思うか質問したのですけど、

佐川さんが言うには、これは原作にはないセリフで、創作当時の「ルール」に関する問題意識から入れたとのことで。

中原さんはご自身のご家族のことで現在経験していることと照らし合わせて、ルールがあるから決められる側面もわかるし、それでも葛藤し続けることは避けられない、というようなことをお話してくださったのでした。

私はというと、本作でのルールというものが「70歳になったら人は死ななければならない」というものであったゆえの違和感だったのですけど、そういうことではない世の中のルール全般、ということだったら、またちょっと意見も変わってくるなという感じ。

「70歳になったら人は死ななければならない」というルールに関して言うと、それは「誰ルール?」って思うんですよね。

誰かが決めたルールで人の生死が決まるとき、死ぬ当人に上のセリフを言わせることに、私は強い拒否感があります。

人が決めたものだから都合が変わればルールも変わるのに、なぜそんな都合に翻弄されて人の生死が決まらなければならないのか。

ってことは、ナンフー・ワン監督のドキュメンタリー『一人っ子の国』(アマプラで見れます)で強く思ったことで。

「決まりだから」は、自分の最終的な意思決定の責任を丸投げにしてしまうことだし、それが命に関わる場面で生じるとホロコーストや一人っ子政策時の中絶や捨て子に結びつくのだけど、

自分の命に関することで意思決定の責任を丸投げって、もう日本以外ではありえなさそうな感じがしたりもする。しきたりがなくても自ら自己犠牲でそうする、のとは違う、しきたりがあるからそうする、みたいなところがザ・日本社会…と思うのですが、どうでしょうか。

それなら、自分の父親は山に連れてったけど、いざ自分の番が来たら散々嫌がり、決まりを変えようとまで言い出し、最後は息子に無理くり連れてかれて谷から蹴落とされるもう一組の親子パターンの方が、最後の決定を「仕方ない」にしてないだけマシだと思ったなあ。

あと最後の方で現代史(月面着陸とか炭鉱の写真など)が重なってきたのって、なんでなんだろう。

あー、そこも質問すればよかったー。

というようなことを、観劇後歩きながら人と語りたい作品でした。3時間くらい歩けそう。

歩きながら話すっていいですよね。個人的に、カフェとかで向かい合って話すより好きです。

問題は、3時間も(まあ少なくとも1時間とか?)一緒に歩いてくれそうな人がなかなかいないということだ!

(編)

 

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