先日読んだブレイディみかこさんと國分功一郎さんの対談で、「あまり発言権がない地べたにいる人たち」という一文が出てきて、
以来「地べたにいる人たち」という言葉がずっと頭の中にあるのですが、
(それはこの前のエントリーで触れた「民話とは残せるものを持たない人たちにとってのよすが」ともつながる)
そこから最近見た3つの作品についてぼんやり考えていることを徒然と書きます。
1つは、茨城県北芸術祭で見た深澤さんの作品。
450年間に渡りその土地を治め、土地の精神性を象徴する佐竹氏に注目、歴史の縦軸を結びつける試みとして「常陸佐竹市」を地域の人々とともに立ちあげたもので、
時の権力者がつくる歴史じゃなく「地べたからの」歴史をつくる、ことの価値について考えていたのですが、
(権力者がつくってきた)歴史が今の社会をつくっているのなら、(それまで発言権がなかった)地べたの人たちの歴史がそこに存在するということはかなり異物感があるというか。

ちょっと先に別作品に移動して、
私があいちトリエンナーレで(その場では全く掴めなかったけど)圧倒された、ソン・サンヒの映像インスタレーション。
 
あのとき自分に強く迫ってきた感覚って、権力者による歴史・記録に民話(残せるものをもたない人たち、地べたの人たちの象徴)をぶつけることで生じた衝突のエネルギーだったんじゃないかなーと。

ちょっとまた別作品に移動して、
神戸で見た東方悠平さんの『てんぐバックスカフェ』で、「制作こぼれ話」の中でご本人が「(略)昔から人間は、病気や自然災害などの目に見えない圧倒的な恐怖や力に姿を与え、どうにかそれらをコントロールしたり共存したりする術を探ってきました。そういったケースは世界中で宗教儀式などにもたくさん見られます。
今回はそんな資本主義経済の怪物に天狗という姿を与えて、人とそれらとの関係について考えてみました。」
と書いていて、ここでいう「資本主義経済の怪物」って「市場を牛耳るお化けのようなグローバル企業」のことなのですけど(※上のリンク先で全部読めます)
てんぐダンスショーが始まるときの、あの劇的な瞬間を劇的たらしめていたものは何か?と考えると、
ちびっこうべが体現していた資本主義経済を回していくための労働というシステム(クリエイティブを発揮できるポジティブな側面ではあるけれど、システム構造は変わらないので、あえてこんな書き方ですみません)と、天狗などの伝承が象徴する地べたの人たちの何か、の「衝突」
それによって生じたエネルギーだったのではないかと。
てんぐバックスカフェとソン・サンヒの映像インスタレーションで、期せずして2度、私は衝突のエネルギーを感じていたのかもしれないなーと思うと、確かに、両作品とも受けた感覚の「とんでもなさ」が共通している。
そう考えると、
前に挙げた深澤さんの作品も、もしかしたらこの先そういった「衝突」が起こるのかもしれないなあ。
でも、まだまだ作品のほんの端っこに関するぼやーんとした発見なので、長い時間をかけて考えていきたいな。
そして
これまで舞台芸術作品で数々の「劇的な瞬間」を体験してきましたが、その「劇的な瞬間を劇的たらしめていたもの」について考えたことはなかったので、
今回それについて思い至れたことはすごく発見だったというか、自分的に今後の楽しみがすごく増えた感があってワクワクする。
ということで
脳内の途中経過でした。(突然終わる)
※11/9(水)22:00追記:アメリカ大統領選はトランプ氏に。冒頭に書いた二人の対談内容はもちろん、資本主義改革、が起こる時期に突入したのかもしれないなあ(この辺はまだ知識が追っついてないけど)。
現実社会で、地べたの人たち(と言ってもいろいろなレイヤーがあるけれどさ)の意思、はどこに向かうのでしょうか。自分だって、もういい加減うんざりしたら、大きなこと(それが破壊的だとしても)をしてくれそうな人に投票するかもしれないもんな。
※11/11(金)追記:ただ、人種差別と政策は別次元の問題です。今回の結果に乗じて、彼を支持した人たちが差別発言を大っぴらにするようになるのは、犯罪行為だし愚かだと思う。
人間としての質と、政策、は分けて考えるべきだと思います。
(編)
 
 

 

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