昨日はCAI02で開催されていた進藤冬華『押入れの中』(昨日が最終日)
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のトークへ。
最初に展示を見たのですが、主に2011年から現在までの作品(冬華さんの家の押し入れにあった作品)を再構成したもので、やたらとグッときた私。
で、一体自分は何にグッときたんだろう?と思いながら、その後のトークを聞いたのでした。
で、まず最近自分の頭にある言葉に、「民話とは残せるものを持たない人たちにとってのよすが」という一文があって、
冬華さん作品にグッとくるのもこの辺が関係ありそうだなーと思いつつ、では「何を」持たない人たちなのかと考えると、手芸や手仕事をおばあちゃんたちに教えてもらったときのエピソードなんかを聞くに、「お金」かなと。
つまり、「資本主義社会の中で底辺に追いやられる人たちにとってのよすが」としての手仕事と、その「祈り」や「願い」。と、根源的な「つくる」よろこび=自分の「生」の痕跡。
そういったものが、冬華さんの身体を経由して再び作品として出てくることで、人の営み(過去から未来に続く長ーい時間軸)の返し縫いみたいなことが起こっているのではないかと。
返し縫いって、以前トヨダヒトシさんにインタビューしたときに出てきた言葉なのですけど、
例えば演劇だと「反復」という手法で
「繰り返しごとに観客が受け取る “気付かない変化”があって、同じ場所を回っているようで、いつの間にか見える景色が広くなっているらせん階段のような効果」(演劇ジャーナリストの徳永さんが高校生に向けた言葉から抜粋)
をもたらすように、
冬華さんの身体を経由して作品として出てくる、誰かの「祈り」や「願い」や「生」の痕跡は、多分元の場所から違うところへ飛躍しているのではないかと思うのです。
(それが、「造形物、彫刻作品としての質の高さ」ってことなのかもしれない)
なんか収集つかなくなってきたのだけど、私が昨夜グッときたのはそういうことなのかなー。

突然終わる。
(編)
 

 

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