身体詩劇-ダンサーたちの無言劇『水の駅』〜孵化する女たち〜を見てまいりました。
本作品は実験演劇集団「風蝕異人街」のプロデュースで、札幌と東京の俳優やダンサー、舞踏家が参加しているそうな。
今年3月の東京、9月のソウル公演を経て、札幌が最終公演です。
さて。
舞台上には、ほこりにまみれた布や衣服が敷き詰められており、中央には水のしたたり落ちる水道管が一本。
全体的にほの暗く、鞄一つを手にした女性が、一人二人…とゆっくり舞台を行き交います。
暗転ののち、敷き詰められた布の中から外の世界へ這い出てくる女性たち。
皮膜がまとわりついたままの彼女たちは、まだ上手く歩くこともできず、存在自体も危うく、必死に本能で水を求め
怒りや恐怖、ひと時の安堵、過去の記憶との戯れ…など様々な感情が表出する中、肉体は何か大きな力に翻弄されているかのような反逆的な動きをし、
最後に衣服の中から生まれでた男女は、水を口にしたあと、何かを怯え逃げ去ります。
そして暗転。
次に出てきたとき、
彼らは「服」を着ているのです。
この瞬間に、舞台上の無数の「服」は、「本来それを着ているはずの人間の不在(=死)」を象徴するものであることがわかりました。
ある女性が手にする男物の靴は、それを履いていた人の不在を
愛おしそうに頬ずりする布の切れ端は、それを着ていた誰かの不在を。
男性が見つめる子ども用の水筒、鳥のいない鳥籠、布を広げてもそこにくるまれていたはずの赤ちゃんはいません。
無数の死に満ちた場所を、力なく歩き回る人たち。
私たちはそこに震災直後の風景を見ますが、
背後に映し出される彼らの影は、これまでも災害や戦争のために全てを失ってはさまよい歩いてきた、人間という弱い存在の歴史のようでした。
最後は
泥にまみれながらも力強いまなざしを見せた女性と、光に向かって歩いて行く彼女たちの姿に再生への静かな希望を感じ、
最初から最後まで、
したたり落ちる水(自然、あるいは大きな時間の流れ)は、変わらずにそこにあり続けたのでした。
声にならない声、言葉として私たちの前に現れない様々な感情を、そのままに「無言」という形ですくいとった本作品につくり手の誠実さを感じ、「ああ、こういう作品を若い人にももっと見てほしいなあ」とも思いつつ。
あとは、
作品に触れるときに、自分のそれまでの体験や好みの範疇で処理しようとすると、フィルターがかかってしまって、逆に何かを見落とすこともあるので、
まずは「無心に忍耐強く見る」、が目標だな
と、改めて。
(編)

 

3 Responses to 【TGR2012】変わらずにそこにあり続けたものは、:『水の駅』

  1. 山本祐歳 より:

    水の駅・・・また拾い上げられ、滴る太田省吾の世界があったのですね!なんかとても嬉しくなって、共にそれは自分のその頃(27年前くらいかな~)のいい芝居を追いかけていた頃が懐かしく思う歳になってしまったのかもw
     
    東京の町はずれの転形劇場アトリエの小屋で見ました。その前に見た小町風伝が印象的だったので、追っていた作家と劇団でした。後で知ってびっくりしたのがそこに大杉漣が出てたと・・・全然印象がない(笑)でもガタイのいい人がいたなってのはうっすら(笑)
    その時に感じた・・・荒廃しながらもその際(きわ)、水というよすがにしなだれるように人は生き続ける、水の滴るきらめきが希望・・・あるいは生物としての業のようなものが言葉として表されないことでよりくっきりと鮮明に訴えかけてきたような覚えがあります。
    まさに若い人たちに観て欲しい芝居です
    とっても好きな劇団・作品のひとつでした。それがまたそんなカタチで再演されていることを聞いて思わず長々とコメントしてしまいました。失礼しました~

  2. (編) より:

    おお。昔この作品が上演されていたことを今知りましたよ!今度山本さんの見た『水の駅』についていろいろ聞かせてください。
    ちなみに観客の年齢層はやや高めだった印象も…その理由もわかった気が。

  3. kiyomi kitada より:

    まずは「無心に見る」という事。。。
    本当にそう思っていても、なかなかできない事だな〜と
    日々感じております。
    私も『水の駅』を観劇しました。
    感想は上手に言葉にできないのですが、
    帰りの車を運転しながら、なんだか少し
    清々しい気持ちになっている自分がいたりしました。
    作品をご覧になった皆さんが
    どんな感想をお持ちになったのか、
    とても興味があります!

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