昨日は北海道立近代美術館宮の森美術館をハシゴして、二つお話を聞いてまいりました。

近美での川俣正氏によるレクチャー&シンポジウム、「人工的な街の中に、パブリックの中に、突如出来るアノニマスな存在、という見せ方が心地いい」、「元からあるものの組み替えとか、ちょっとしたズレを心地良く感じる。僕は、新しいものを作ることに疲れている」と川俣氏。

で、会場から「都市の中で変化はいつも起こっているが、それが作品となる境界はどこにあるのか、またその価値付けはどのようにするのか?」という質問が。

それに対しては、「埋没して誰も気づかないものに、一人でも気づいたらそれでいいと思っている。アートが触媒となって、街の新たな一面に一人でも気づいてくれれば」という、主に価値付けに対するお答え。

都市で起こる変化(例えば工事とか、何かいろいろ)に対する、それが作品かどうかの境界線は、意識的に仕掛けた人がいるかどうかってことですよね?違います?

という話を聞いたあとの、宮の森でのぐっとくる話です。

10名くらいが、それぞれの「ぐっとくるもの」を宮島さんにプレゼン。ほとんどが人にまつわるもの、コト、記憶にぐっときているのに対し、ただ一人「立体駐車場にぐっとくる」という方がいたのです。

「人を相手にしていない機械」という視点が新鮮で、「人間同士のコミュニケーションというレイヤーの上に、機械同士のコミュニケーションというレイヤーがある」という発表に、なるほどなるほど、と。

この方は立体駐車場の存在から、物事の新たな一面に気がついたわけで、何かこの思考の流れが、近美で聞いた話と微妙にリンクしているなあと。

なので、ドゥヴィーニュ大賞はこの方に差し上げたい。こういう視点の変換が起こる時って、実に気持ちの良いものであります。

あ、この方というのは、以前ブログにも登場した坂田氏です。すごいなー坂田氏。

(編)

 

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