(後半はかなり徒然です)
シアターキノで開催中の札幌ディレクターズ2
先日、三宅唱監督の『やくたたず』を見てまいりました。
[youtube]http://www.youtube.com/watch?v=cXpQlaAGjGQ[/youtube]
カメラのフレームの存在について改めて考えてしまうような、何だか不思議な印象を残す映画で。
ガチガチに切り取る、というより
大らかなのですけど、でも確かに存在する、という感じ。
見えるものをすごくコントロールしているのが映画なんだなーと(それは悪い意味ではなく)当たり前のようなことが思い浮かんだ次第です。
でも『やくたたず』は、そのコントロールにどこか隙間もあるような…それが不思議な印象につながっているのかな。
出演されている俳優さんたちの佇まいにも、これまたどこか素のような隙間があって、盗まれた車を発見するシーンではこちらも本当にドキドキしてしまいましたよ。
昨夜は、沼田まほかるさんの『ユリゴコロ』を一気読み。

最後でリアルに鳥肌が。すごい… (本書のニュース記事はこちら
しみじみ思ったのは、
人が創造するもの(例えば舞台作品とか映画とか小説とか)というのは、一見違うもののように語られがちですけど、想像力をフル回転させたり、作品と対話できる余地があったり、何かしらの衝撃を与えられたり、という点でやっぱりどれも同じだなと。
これまた当たり前のことを再認識。
それを大前提として、自分の場合、今は特に舞台作品にはまっておりますが、
それは
自分の想像力が及ばない何か、が目の前に現れるときの興奮、とか(それはダンスや人形劇に多い)
与えられるものが全ての人にとって同じではない、という一期一会の感じとか
(客席によって、あるいはその人の関心によって、見ることのできる表情や仕草に微妙に違いがあるから)←これは、本や映画ではそうないことかなと思います。
そういうことを、どんどん体験したいからなのだろうな、と。
特に、「与えられるものが全ての人にとって同じではない」という部分は、記録映像だとなくなってしまうので、「これは!」という作品はやはり劇場で体感したくなります。
ふむ。
脳内の途中経過でした。
(編)

 

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