パスプア #01『おくるないことば』をカタリナスタジオで。

登場するのは、「心にもないことなら、言えない」琴葉、塾で「高得点を取るための」国語を教えるユウ、ダンスを愛するあいこ、承認欲求強めの幼稚なトンデモ言語学者でマジ消えてほしいDV野郎の弘之。(最後の風当たりが強い理由は後述)

自分の中にある曖昧な感情の輪郭を際立たせてくれるのも言葉だし、自分を守る武器にも、相手を打ち負かす武器にもなる、言葉。

そして、自由意志による言葉のキャッチボールによってお互いの予期せぬところへたどり着ける相手に出会う幸運もあれば、(言葉のキャッチボールによって発見された琴葉とユウの新しい関係性は、とても良いなあと思った。)

自分の望んだボール(言葉)しか受け取らないことで相手を隷属させようとする人にぶち当たる不幸もある。

言葉そのものに力があるのではなくて、それを発する人、状況、関係性によって力が生じ、その強弱も変化するものですよね。

昨今は、特に政治家が陣頭に立って言葉に対する信頼を損ない続けている感じもありますが、古くは占領下での自国語の禁止などがあり、人は生きるために変化を受け入れたり、抵抗したり、逃げたりしてきたのだと思います。

登場人物4人それぞれの言葉の力の使い方も、大なり小なり自分にも思い当たる部分はあったし。

がですね、

思い当たる部分があったとして、「おめえちっとは自制しろや!!」と思わずにいられなかったのが、承認欲求強めの幼稚なトンデモ言語学者でマジ消えてほしいDV野郎の弘之です。

不幸にも弘之とくっついてしまったあいこに浴びせられる言葉の暴力(ザ・DV)が、本 当 に 見ていてキツかった。

文字で見るのでも、映像で見るのでもない、目の前の人間が発する言葉を全身で受け止める演劇だからこそ、本 当 に 苦痛でした。(自分の隣の空席の椅子を弘之に投げつけようかと思いました。マジで)

今まで演劇でそういうシーンを目にしたことがなかったとは思えないけど、多分、暴力としての言葉(さすがの小佐部脚本)とそれを再現する演技の精度、さらにそれが占める分量といったところで自分の許容範囲を超えてきた。

言葉の力についての作品で、凄まじい言葉の暴力をある程度のボリュームで浴びせるとき、つくり手はどこまで想像したのかな。もしかしたら、観客席にあのシーンで傷口が開いてしまう女性がいるかもしれない、とは思わなかったのかな。

今は記事でも映像でも「センシティブな内容」を含んでいるときは事前に警告する流れがあって、特に暴力(ハラスメント)に関するものは被害者にこれ以上ダメージを与えないよう細心の注意を払って公表されるから、やっぱり目の前で再現する演劇で暴力をある程度の精度と分量で扱うなら、何らかの注意喚起はあったほうがいいのかも…。

ということを初めて考えました。

途中退場しやすい席の案内とかさ。(本公演で導入していた100円観劇プロジェクトなんて、まさにこういう場合にもピッタリ。)

事前の注意喚起と逃げ場を確保した上で、あとはもう存分にやればいいのだと思います。

ちなみにじゃあ自分は、仮に事前の注意喚起と逃げ場が確保されていたとしても、まあ観に行って、「苦痛…!!!!」と思いながらも、あいこがどうするか見届けたくて最後まで観ただろうけど。(で、最後の抱擁は幻想だなと思いました。しねーよ!!!マリア様じゃねーんだよ!!!)

いやつい言葉が荒れますね…すみません。それほどの観劇体験だったということで。

あ、でも

嫌な感じで抉ってくるセリフは小佐部さんの持ち味の一つではあると思うのだけど(褒めてます)、弘之の言葉の暴力の精度に比べると、琴葉とユウ、あいこの語る言葉の精度はややぼやけていたようにも思うんですよね。

なんというか、筆が乗る得意部分のアウトプットを意識的に抑えることで、また違うアプローチの設定や構成が可能だったのでは?ということも、少し思いました。(勝手な想像)

そういう試行錯誤も観てみたいな。4人の素敵な役者さんが揃う劇団ですしね。

(編)

 

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