NTLive二本を鑑賞。一つ目は『善き人』。

ユダヤ人のモーリスの語る苦しみを聞きながら、昨日やっとこさ読み終えたガッサーン・カナファーニー『ハイファに戻って / 太陽の男たち』に書かれている、パレスチナ人の苦しみを思った次第。

ちなみにヴィゴ・モーテンセン主演の映画版の方も先日観てみたのですが。

後半が舞台版と違って、ドイツ人教授ジョン・ハルダーはモーリスのために、パリ行きの列車のチケットを買うのですね。友のために自身の命を危険に晒すという行動を取っている。

そしてそれをアンに託すのですが、最終的にアンではなくモーリスを選んでいるところが、舞台版との大きな違いで。

舞台版も映画版も、一個人が大きな権力に飲み込まれたときの、個人では舵取り不可能な状態での悲劇を描いているのだけど、映画版の方のジョン・ハルダーは「人間の弱さ」に抗う姿勢を見せるので、「凡庸な悪」感が薄い。

その意味では、舞台版のハルダーの方がより自分たちに近くて、それゆえに観ていて堪えました…。

NTLiveの方の予告編で流れていた『関心領域』(5月公開)も観に行かなければ。

続いて、『ベスト・オブ・エネミーズ』。

無 茶 苦 茶 面白かったです。

終盤のカメラがない場での二人の会話はとても演劇的だし、今だとSNSに報告されない場がそれにあたるのかもしれないなー、と。

「外に見せる自分」となると、どうしても一貫性というか一定のリミットがかかってしまうのだけど、本来そこは結構あやふやで、相手に共感可能なものだったりする。

だから、「外」がない状態であるなら、もしかしたら敵対みたいな状態は緩和されるのかもしれないし、そこでなら可能な対話というものもあるのだろうな。

人が大事にしていることの根っこは大体つながっていて、対立する意見でも深く聞いていくと、必ずどこかに理解できる部分はある。政治は人によって異なる優先順位を調整して妥協点を見つけていくことだと思うのだけど、どうにもSNS等には「100か0か」みたいなことばかりが流れてきて、まあそういう思考には向いてないよなーと。

でも、もしかしたら、終盤のカメラのない場での(フィクションとしての)ウィリアム・F・バックリーとゴア・ヴィダルのような対話が、どこかで行われているのかもしれない。

いや、表に出てこないだけで、現実でもそういう場できちんと建設的な意見交換が行われているのでしょうけど。それをできる堅実な議員もちゃんと存在しているだろうしな…。

という感じで、人間の知性への希望のようなものも本作から受け取りつつ。

それにしてもNTLiveはいいなあ。まだ公開日は掲載されていないけど、ディア・イングランド』も札幌で観れるみたいで、楽しみにしています。

(編)

 

 

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