先週観たもの。

Stuffed Puppet Theatre(スタッフド・パペット・シアター)fromオランダ『ユビュ王』@札幌市こどもの劇場やまびこ座

Stuffed Puppet Theatreは、2019年にも『アフガニスタンのパンチとジュディー』ツアー公演をしていて札幌でも上演されたのですが、そのときはマテーラに行っていて観れず。

今年こそは!と速攻予約して無事観劇。人形があれほどに人間味を帯びるのが魔術的というか、最高峰と言われる所以なのだろうなあ。

感想を検索する中で、2019年の公演のときのものを見つけ。

エドワード・ゴードン・クレイグの「俳優と超人形」という論考があるのかー。初めて知ったけど、こちらの記事がわかりやすかったです。なるほどー

こちらは終演後の撮影タイム。

札幌でも海外の人形劇をもっと観れるようになるといいな。

お次はニナ・メンケス監督『ブレインウォッシュ』@シアターキノ

制作にまつわる権力構造の上位が男性によって占められてきた映画界で、いかに女性が客体化されてきたか、その表象のあり方がいかに現実社会に影響を与えてきたか、と検証&考察するドキュメンタリー。

権力構造の上位が男性によって占められているのは何も映画界だけではなく、現在においてもだいたいほぼ全てにわたってそうである状況がある中で、ありとあらゆる視覚言語に女性の客体化は潜んでおり、自分もその「男性中心の視点」に汚染されているし、そこからの脱却の難しさも痛感している身なわけですが。

そして例えば、本作についての感想を男性と語る場合。

女性の客体化の弊害を相手と共有したい自分が、本作の中で検証されていた「女性の顔がフレームからカットされて(主体性が剥奪されて)身体(特にバストやヒップなど)をアップで映したショットが挟まれがち&理由なく裸体ショットが挟まれがち事例(男性だとそういったことが起こりづらい)」をピックアップして、それが現実社会で男性の女性に対する視点や態度にどんな影響を与えているかを話したとして。

男性側から「動物には生殖のためにメスをお尻で選ぶオスもいるのだから、そこに目が行くのは(視覚言語による影響ではなく)本能」みたいな正論を返されると、話の方向が迷子になってしまった感覚に陥ってしまう。

圧倒的な不均衡があって、それについての話をしたいときに、力のある側にその不均衡前提を外した正論を言われると、「それは確かにそうだけど」と思うのだけど、

同時に、その正論がある種の免罪符のような形になってしまうことで、不均衡に対する自分の怒りの行き場がなくなる(話の方向が迷子になる)気がして、非常にモヤモヤするんだなー。

自分の伝え方がとっちらかっていたせいも多分にあると思うけど、そもそもこのトピックを男性と話そうとしたことが間違いだったのかもしれん…。

とは言え

自分が力のある側に立たされるトピックだってあるわけで、そういったときはどうしても自分が責められているような気分になってしまうから、そこから脱出したくて自分も間違いなくこの正論返し戦法をやっていそう。気をつけなければ。

自分が力のある側に立たされるトピックのときは、正論を言いたくなる気持ちを一旦飲み込んで、その不均衡をなくしていくために個人がどのような努力をすれば社会が変化していけるか、みたいな方向で考えて話すようにすると良いのかもしれないな。

他者と話さないとわからない気づきってありますね。

ふー

(編)

 

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